天神様が
自ら彫った
日本三躰を
唯一今も
永谷の地に
護り続ける
ごあいさつ
天神様は「わらべうた」にも歌われているように、
日本全国で親しまれ崇敬されています。
それは学問の神様とされる菅原道真公のように、
清く正直な人になりたいという
日本人の自然な心のあらわれなのではないかと思います。
「日本三躰永谷天満宮」は
菅原道真公の御自作の御神像をおまつりする
由緒正しきお宮です。
現在も合格祈願をはじめ、
お子様の無事成長を祈るご家族等、
多くの方々がお参りに訪れます。
当宮へのお参りから、
私どもの祖先が大切に守り伝えてきた
菅原道真公の御事績(ごじせき)を
身近にお感じ頂き、
大神様の御照覧(ごしょうらん)のもと
清々しい毎日をお過ごし下さい。
日本三躰 永谷天満宮 宮司 川辺浩司
学問の神様、菅原道真公ゆかり
天神様が御祭神
御祭神:菅原道真朝臣命(すがわらのみちざねあそんのみこと)
※御神体菅原道真公御自作一寸八分の御木像
・学問の神(学業成就)
・至誠・厄除・子孫繁栄
・出世・仕事運
・永谷地域守護
日本三躰
太宰府に左遷された菅原道真公が、自身を鏡に映して自ら彫ったとされる三躰の木像。
一躰は筑紫大宰府安楽寺に、一躰は河内国土師村道明寺に、そして残る一躰が当永谷天満宮に安置され、これを「日本三躰」と称します。
御神体である木像の現存が確認され丑年大祭で御開帳の儀が今でも執り行われているのは、日本三躰のなかでも当宮のみとなっています。
御由緒
相模国永谷郷(現在の上永谷ほか)座の天満大自在天神の御祭神である菅原道真公は、第六十代醍醐天皇の昌泰二(899)年、右大将に任命されました。
道真公は更に、昌泰四(901)年正月七日には従二位にも叙せられましたが、その月の二十五日に、筑紫の大宰府(福岡県)に員外帥(定員外の役人)として左遷されてしまいます。
道真公は大宰府に着任した翌年、鏡に向かってご自身の姿を三躰の木像に彫刻しました。そしてその内の一躰は秀才淳茂に、一躰は筑紫大宰府安楽寺に、残る一躰は河内国(大阪府)土師村道明寺に安置されたのです。
その後道真公は、延喜三(903)二月二十五日、大宰府に於いて五十九歳で薨じています。
さて、五男淳茂公ははじめ播磨国(兵庫県)に配流となりましたが、後に関東に下向して永谷郷の下の坊に居館を構え、道真公自刻の御尊像を奉祀して朝夕崇拝したことが、永谷天満宮のはじまりであると伝えられています。
その後御神躰は、菅原文時、藤原道長、上杉金吾らに伝わり、明応二(1493)二月のある夜、相模八ヵ郷の領主、上杉刑部太夫、藤原乗国が霊夢を見たことをきっかけに、天満宮の社殿を造営し御神躰を安置し奉りました。天文十二(1543)年に宅間伊織之亮、藤原綱頼が社殿を修造し、天正十(1582)年に宅間規富は宮社を再築しています。
明治六(1873)年に村社となった永谷天満宮は、明治四十四(1911)年四月三十日に神饌幣帛料供進神社に指定されました。
御創建から五百余年、永谷天満宮は現在も多くの参拝者に親しまれ、霊験あらたかに私たちを見守り続けています。